あの朝へ〈現在地フリーター〉

フリーター1年目(25歳、女性)による日記。

ニートのうちに

面接がどんなものだったか、忘れてた。
面接官の目を見ると、喪失感みたいな感覚に襲われる。
私には何の価値もなくて、何を言っても伝わらないんじゃないかと思えて、嘘を言っているような気分になって、この記憶は本当に現実だったのか、夢だとか、思いこみだったんじゃないかと、ごちゃごちゃになる。

面接、やめようかな···。



···こういうこと、ずっと抱えこむだけで、ニートにもなって、でも、ちっとも片付かないまま。
私は変わらずに、死ななくちゃいけないまま。

あぁ、そうだった。私はそんな人だった。
またあんな自分になるなら、ニート万歳だ。

······どうして生きる理由を、積み重ねられないんだろう。いつになったら、生きていけるのか。


···“生きるのに理由はいらない”、そう思いたいけど、うまく理解できない。
なんだか“無償の愛”に似てる。何かをしても、しなくても愛してくれる。味方でいてくれる。叱ってくれる。
そういうのも、私にはいまいちわからない。生きるためには理由が必要で、愛されたいなら努力をする。

それだけが原因とは思ってないけど、居心地の悪い人生だった。いつまでも足もとが不安定で、しがみつけるモノがない。からっぽな自分。
それがわかるから、どうにかしたいと思うのに、うまくいかない。
愛されるには、理由が必要で、

······このままは嫌だ。
このままじゃ、いつか出会う子どもに、愛するための理由を探し出してしまう。···それだけは嫌だ。
でもわからない。どうしたら愛せるのか。生きていけるのか。

子どもは怖い。
私の言葉には良くない思想が染みついていて、それで子どもに悪い影響を与えてしまうんじゃないかって、怖い。
こんな私のようには、なってほしくないもの。

でも、私に避けられた子どもは、何を感じるだろう。愛情の反対は、無関心。
この私が存在している以上、私は何かを表現してしまう。それをやめるには、死ななくちゃいけない。
勇気を出して、死ななくちゃ···。
そんな勇気があるなら、私は生きてられただろうな···。

生きる理由を積み重ねられないのは、苦しみを引きつけるからかもしれない。
大切なものに出会うということは、失うということ。

私は自分の心を癒す方法を、見つけられてないんだと思う。
生きれば生きるほど、積み重ねられていくしかない人生で、もう、抱えこむだけでは生きていけない。
どんどんおかしくなっていく自分がわかる。
中、高、大学生のときに面接をやってきたけど、やる度に悪くなっていった。


今、私はニートだ。
このニートの内に片付けられるかもしれない可能性が、救いになってる。
本当は死にたいなんて思ってないはずだし、まともに生きられるようになることを望んでる。

だから、抱えこんでるものをどうにかしたい。
それができれば、どうやって生きればいいか、子どもと接すればいいか、わかる気がしてる。

···わかればいいな。

働ける自分になりたい

いいから働けよ、とか思う。

うん、確かに、わかってるんだけど···今抱えてる心の問題を片付けないと、働いてもすぐに良くないことになりそう、とか、なんとか···
こりゃ甘ったれの言い訳だろうか。

あ、いや、自分の思うことを疑いすぎると訳がわからなくなるから、こういうときは一旦聞き入れてやらないといけないんだった。
気づくの早かったなー。
文章にしてるからかしら。

さて、それじゃあ、どこまで片付けようか。
これって気持ちの問題だから、きりがないと思う。何かしら期限を作って、有限の中でやらないと。

えーと、ニート3年目のうちには、どうにかしたいな(来年の4月まで)。そして、働ける人になることを目標にしよう。
···そうじゃなかった。まず面接の方が大変だった。そうだった、そうだった······。



よしっ。面接できる自分を想像してみる。
今の私との違いは何かな。

んー···自分の地に足ついた将来展望を持ってる。経験と繋がった希望。何をやってきたか。

···そんなの、何もやってこなかったんだけど。自分のために生きてなんて、これなかった。
だから、これからは自由に生きたいと思う、のに、自分がわからない···。

またネガティブ。
そんなはずないだろって、思いたい。どんな大学、資格じゃなくて、他人にはわからない、小さなことならあるはず。何が好きかとか、まずはそれを見出そう。

あとは、“これでいい”と思える、自信を持ってる。ん?自信というよりも、妥協か?今はこれでいいっていう。
それで受かればね···。

なんだか、間違っているのかもしれないと思えてきた。世間に合わせるか、自分を突き通すか。
自信ってのは、なんだろう。

自信があるからといって、有能だとか、正しいということにはならない。その等身大を自覚しなければ、自惚れになる。
だから、この私がその等身大の自信を持ったところで、しょうもないような気がする。
それは世間にとってのしょうもなさで、自分はこれでいいと思ってるとしたら、それって面接で必要か?
もっと世間に合わせて、無能さを自覚してますアピールをするとか、それで向上したい話をした方がいいだろうか。

···ダメだ、わからん。

んー···自信があれば、オドオドしないかと思ったんだった。問題はオドオドか。
自信よりも、気楽を手に入れる方がいいかも。それじゃあ、世間に合わせよう。

···それ気楽か?
世間が何かわからないと、不安になってしまうんじゃないだろうか。

そうか。それじゃあ、自分を突き通せられる人になろう。

···本当の問題は、それをどうやるかだよね。
がんばろう。

私は何者にもなれないと、思ってしまう


風邪をひいた。でも、病人にもなれない。
何者にもなれない。
早くここから出ていこう。


自分に自信が持てない。
周りにいる人が良い評価をしてくれない。悪いってことばかり言われる。何ならやっていいのかと思ってしまう。
そんなこと思ったって、どうしようもないのに。
自分がやりたいことやらなくちゃ。

でも、自分のことがわからない。わかりたい。そのために、親という権力者から離れたい。
私は特に父親を拒否することが苦手。逆らったら捨てられる、なんて、もう25歳なんだから怖いことないのに。

子どものころ、家の外に追い出されたり、叩かれたり、怒鳴られたりして、怯えてたくさん嘘をついてきた。
そうして嘘に慣れてしまって、守りたかった自分を見失った。

···そんなの、無かったのかもしれない。守りたかった自分なんて。積み重ねてしまったのは、嘘。
私は何者でもない。自分ですらもない。

もう、やめよう。そんな自分をやめよう。
風邪ひいてぐったりしてるのに、夕飯作ろうとしてる自分が嫌だ。もう、自分に嘘はつきたくない。
でも、すぐには変われない。だから、一人暮らしをしよう。そのために働いてお金を貯める。

···環境を変えれば変われるなんて、甘いだろうか。でも、ここにいたくない。これ以上自分の人生を無駄にしたくない。
こんな私にできるだろうか。私には何もないのに。

嘘つき。
何もないって、なんのこと言ってるんだよ。
何があればいいっていうんだよ。

うーん···趣味特技がない、生きる気力がない、生きることに執着してない···何もないわけではないか。
少しなら、ある。
面接では言えないくらい、ちっちゃなことだけど。
それで十分かもしれない。

地味に生きよう。それがいいな。楽できる。
ゆったりとした人になろう。
他人からの評価を、間に受けることはない。

脱皮したい。肉、古い皮、新しい皮の分別。

ブログ更新しよー。
気軽に書いてみよー。

···とはいっても言葉って難しい。書き直してばっかり。私は文章も、話すのも不得意。でも、そんなこと言ってられないからね。せめて文章はどうにかしたいんだ。···話せる人いないし。
とにかくブログをちゃんと続けることが大事。そのためには、どうでもいいことを支離滅裂にでも書くしかないかなと。

···んーと、文章にすると気持ちが整理されるから、今のことを書こうかな。



今、私はどうにかニートを抜け出そうとしてる。
でも、まぁうまくいかない。脱皮するって感じで、捨てなくちゃいけないことがたくさんある。
生きようとすると、今までうやむやにしてきた出来事や、言葉にできずに心の奥にしまっておいた気持ちが出てきて、なかなか進まない。
何が正しかったのかに悩み、あいつのせいだと恨み、取り戻せない過去に落胆する。
そして、ふと、どうなりたいかに背中を押され、積み重ねてきてしまった、ねじ曲がった考えと衝突する。
もう、めんどくさい。
今までのまま、うやむやにした方がいいとも思った。これで25年を生きてきたんだから、とか、思って、んじゃニート続けるのか、自分のこと嫌いのままでいいのかとか思い出して、また地道に葛藤を続けようと思い至る。
すぐに忘れて、何度も思う。

その、25年、生きてきてくれた自分を否定するのは難しい。頼れる人はいなくて、いつも1人で抱え込んできた。そんな自分を変えようとすると不安定になる。
でも、ここで変わることを、私は望んだから。
何度も変わりたいって思うから、否定······ん?
いや、それ言い過ぎでしょ。まるで全否定しないといけないって受け取ってしまってる。

また良くない考え方を発見。極端すぎるよ。
こういうのは親や先生に“言い訳するな”とか言われたせいだ。何であろうと全部自分が悪いなんて思わされて、時間をかけて話そうとしなかったから······って、他人への憎しみを増やすのは、やめることにしたんだった。
こんな気持ちには、“自分は絶対にやらない”とか、これからどうできるかに変えないと、ぐるぐると抱えこんで無駄に消耗する。
納得できないこともあるけど。

えーと、全否定なんてしないで、ちゃんと見てみよう。
何が問題かをはっきりとさせて、何を残して、何を捨て、何を積み重ねるか。変身ではなく、脱皮。
手間がかかるなー。


長くなった。
これから、もっと気軽にやれるようにしよう。

1歩ずつ、地に足つけて進みたい


年内には働きたいと意気込んでたんだけど···どうなるかな。
やっと最近余裕がでてきて、やれそうだと思えるようになった、のに、体力をつけようと筋トレをしてみれば、すぐにくたびれて続かないし、思い切って散歩をしてみれば、精神ばかり疲れる。
気持ちが変わっても、今まで通りの体は思うようにはいかない。

でも、ここでやめられることではないから続けないといけない。けれど、このまま無理やり続けてしまえば、また自分を見失うような気もする。
どーしようもない。

とりあえず“体を動かそう”とだけ思った。
そうしたら、やれた。片付けやら掃除だけど、やるようになった。

正直甘すぎるんじゃないかと自分でも思った。そんなんで働けるのかと思った。
そうして思っている間に、うっすらと気づいた。
“また自分を責めてる”
すぐに自分を肯定する言葉をかけた。自分のことをバカだと思って、そんなことないと言い聞かせた。

1番に私のことがいらないのは、自分なのかもしれないということに、気づき始めてる。
弱い私はいらない。なんで筋トレも散歩もできないんだよ、んなこともできないのか、って···。
何やってるんだか、私は。バカだなー、っじゃないって···。

めんどくさいようだけれど、片付けくらいしかできない自分を認めなくちゃいけないみたいだ。やっとわかった。
私は、自分に厳しい。そんなこと出来て当たり前とか思ってる。何を目指しているのやら。
今生きる糧を奪ってまで、得たいものなのか。
まったく。自己肯定感とやらを身につけないと。

きっと本来の私は、ずっと後ろにいる。
無理な計画をたてる私は、体を置いてきぼりにして宙を漂ってる。
後ろなんか見たくないんだろうけど、あの場所からじゃ散歩するには1歩では無理だ。身の回りの片付けや掃除がちょうど1歩分。
そんな所に自分はいるんだ。
それを受け入れたがらないのは、面倒な感情を処理できないからだと思う。これをどうにか少しでも受け入れられれば、地に足つけて進めるような気がする。

しかしこんなのに今さら気づくなんて恥ずかしい。これが3歩進んで2歩さがるってやつなのかな。
地道に探ろう。急がば回れだな。
きっといつかは働けるはず。

ニートに社会的役割があれば、私は楽になれる。

社会は、ニートである私を必要としていない。

“手を貸してください”ってニートに頭下げるくらい切羽詰まってはないようだし、こちらが心配するようなことにもなってない。
いや、それはもしかしたら私が世間知らずなだけかもしれない。でもそれを含めても、自分の人生に受け身だからニート生活が続いてる。

しかしこうしていられるのは、この世の仕組みに組み込まれたことだから、存在できているんじゃないかと思ってみる。実は周りの人に支えられているだけに見えるニートにも、社会を支えている面があるんじゃないか。
もしニートが今の社会で役割を担っていて、機能しているとしたら···そう考えて一つだけ思いついた。

ニートは社会の安全弁なのかもしれない。
人が急に減ったり、大変なことになった時にニートを引っ張り出す。どこにも所属していない人間は、社会が危機に直面した時に、持続させる役割を持っているんじゃないかと。
だからニートニートでいられる社会は平穏。

こう思うと、少しは気が楽になる。災害の知恵を身につけるなんて余裕もでてくる。


ニートである私の問題は、毎日余裕がないこと。せっかく働いてないのに、私は遊べてない。現実逃避しかできない。いつでも自分がニートだって消えることはない。
そうやって、ニートには社会的価値がなくて、クズでお荷物だからって、肩身の狭い思いをしたり、そうでない人間になりたいと思って葛藤したり、反発したり、言われた通りの人間になったり、死にたくなったり、無視してわがままになったりする。

やっとそんな自分に気づいた。いったい何やってんだって、自分を見失ってたことに気づいた。
もう、ニートを否定する人と同じステージから、降りないといけない。そうしないと、受け身の私は変われないんだと思う。
何のために仕事につかなかったのか···私は、ニートになってしまったのではなく、ニートになる必要があったからなったんだ。だからここから進まないといけない。
ニートをクズ扱いしたままでは、自分の人生を掴めないままなんだと思う。それだから、ニートを社会的に認める理由を考え出した。そうでもしなきゃ、ずっと自分を否定しながら、ニートやってることになりそうだから。

社会での立ち位置探し

今の私は、“楽しい”もろくに思えなくなってしまった。それとも、拒んでいるだけだろうか。嫌な感情を殺せば、他の感情も殺すことになる。
不器用だな。

できることなら本当の私で生きたいと思う。
色んな仮面を持っていると、生きていることを見失う。生きづらさが一生続くのは嫌だ。死にたいばかり思いながら、無理して生きるなんてバカらしい。
そんなこと思ってるんだったら、生きやすい生き方を模索する苦しさの方が、まだいいかもしれない。
どうにか現状を受け入れて、どうにか、生きられるようにしたいな。



人は群れの中で、一人一人役割を持って支えあって暮らしてる。今の世の中は広くなって、なかなかそれを目にすることがないから、実感薄いけど。

···中学生の私の役割は、自殺することだった。
そう思ってた。
私がそうすれば、人はもっと優しくなれると思ってた。心ない人達の言動がどれほど狂っているか、周りにも本人にも、私の自殺からその重大さに気づいてほしかった。他人にも人の心があるというのを、思い出してほしかった。

私は自分を抑圧してしまうために、うまく言葉を発することができない。
私が強く非難していると表現する方法は、自殺という行動しかないと思っていた。あの小さな社会で、それができるのは私しかいないと思った。
でも、私はその社会の役割に背いた。

歯車が狂ってしまった。

夢というものに、惑わされた。
自分はなんにでもなれるという幻想を抱いた。

私は、“将来の夢”に答えられない子どもだった。きっと私には無くてよかったんだ。自分にできる求められていることをして、人の役に立てればいい控え目な人間だったのに、自意識過剰な個性信仰に流されてしまった。

私は高望みできるような人間じゃないのに、平凡でいてはいけないって、上へ上へってどこまでも、止まって深みを感じる間もなく上へ。
なんにもならない、薄っぺらい階段が出来上がってた。
一体誰の人生を生きていたんだか。

当然夢の道は与えられなかった。社会は、自己愛者の夢を必要としていない。
目指すべき道を間違えた。私は、社会に必要とされたい人間だった。


でも、死ななくてよかった。極端すぎ。
あの人達は、誰かが先生にちくったみたいで、職員室に呼び出されてた。

私は、人に頼ることを覚えないとな···。