本心の私は散歩できない
今でも本心の私は、はやく死ななくちゃって感じてる。
死ぬなら早い方がいい。
あぁ、そっか。
思い出した。
私がニートになったのは、こいつの仕業だったのか。ま、それは今度書くとして···。
私の今の問題は本心をないがしろにすることだ。
んーー···
すると、ポケモンgoで散歩に出るときの、あの自意識過剰さに向き合わなくちゃいけないのか。
···それが本心だといえるだろうか。
少なくとも過去の私と繋がった感覚ではあるが、病気みたいなものかもしれないし、それだけで本心かどうかは······←何こいつめんどくさい。
ともかく、未だ散歩に行けないのは事実。
でも、本当は行ける。私でない奴なら。
でもそれじゃあ、これから仕事をするときに、また生きていることを見失う。
本心の自分でなくちゃ、やる意味がないんだ。
だからその“本心”ってなんなのよ。
えーと···私の言っている本心の自分ってのは、感覚や感情に素直で、今まで積み重ねてきた経験の上で生きている奴のこと、かな。
いい感じに書いてみたけど、それってすんげぇめんどくさい、子どもっぽい私のことなんだろうな。
本心の私は散歩できないけど、散歩するべきだと思える奴はいて、私とは別の、他人みたいな奴なら散歩できる。
自分が他人のようになってしまっていた大学生の頃の名残が、まだ払拭できて······あれ?
“今まで積み重ねてきた経験の上で生きている私が、本心の自分”
これって、あの頃生きてた自分でも、“本心の自分”に含まれるんじゃないか?
それなら今の私も···。
これが今の本心だっていうのか。
ちょっと、わけがわからない。
生きやすい他人のような自分も、本心だというのか。こんなに、でたらめなのに。
そうだとしたら、“本心の自分でなきゃ意味ない”って思ってたのは、ただ、自分を否定してただけ···
んー······
でも実感がないんだよ。
きっと散歩したって、身にならない。進歩しない。
そんなのは嫌だ。
あれ······
私は、何を、否定しているんだ···?
散歩に行ける自分を、否定してるんじゃないか?
私が散歩に行けるはずないって、そう思いたいだけなんじゃ···
·········
夕飯食べてきた。
私が知らないといけないのは、どうして自分が自分でないようになってしまったのかだと思った。
また次回の日記で探ろう···