あの朝へ〈現在地フリーター〉

フリーター1年目(25歳、女性)による日記。

人を頼れない、頼られない

大学3年生だった私は、現状を受け入れられず、抱えこんでおかしくなった。それがあって、自分ではないと感じる自分が出てきた。
けれどそいつのお陰で、なんとか社会的に生きてこれた。今はニートだけど、病院とか刑務所にいないんだから、よくやったと思う。
あの私がいなければ、どうなっていたか···。


今はもう必要ないはずなのに、まだ客観的な私ばかりが意識にあるように感じてる。
今の状況は良くない。

私は、主観的な私のことを信じてやれない。たぶん、抑え込んでる。
仕事なんてしたら、また頭がおかしくなると思いこんでる。

ネガティブな思考が根付いているから、文章にしないと自分に気づけない。

私は、無意識に自分の感覚を抑えこんでいる。
たまに情緒が不安定になるのは、自分がおかしいからだと思ってきたけど、そうではなくて、本当は気持ちをさらけ出したいだけなのかもしれない。
耐えすぎているのかもしれない。

私は、感情に理由を求めすぎているのかもしれない。


そうだ、私には、私を操ろうとするところがある。

私には頼れる人がいない。
頼る人間なんていない。
私のことを大切にしてくれる人なんていない。

だから、どうにか、自分だけは、自分のことを思いやらないといけないって思うようになった。

変わるためには、自分でどうにかしないといけない。助けてくれる人はいない。自分は怖がりで、どもってしまうこともあるけれど、客観的な私が出てきてくれれば、少しはどうにかなる。
誰かからの、背中を押す言葉を待っててもどうにもならない。


本当なら、人間にはできないことがあっていいはずだとは思う。人間は、群れで生活する生き物なんだから。1人じゃないんだから。

だから別に私にだって、できないことがあってもいいはずなのに、私は誰も、頼れない···。

いや、頼りたくない。
今まで1人で抱え込んできた。
たくさん傷つけられて、たくさん抱え込んで、少しずつ自分で癒してきた。
生身の人間からは、一度救われたくらいだ······

···その一度だけが、今でも目頭を熱くさせる。

現実を拒んでも止まらないから

自分のままでスイッチの切り替えができていれば、自分ではない感覚にならずにすんだのかもしれない。
けれど、あの大学3年の私は、ずっと現状を受け入れようとしないで、しがみついて動こうとしなかった。

“今のまま大人になっちゃいけない。
まだ私は、自分の人生を生きたことがない。”

ただそう強く思うだけで、自分のやりたいことをして生きる道も、思うままに死ぬ道も、なぁなぁにして生きる道も閉ざされていた。
できることなら時間の中に取り残してほしいと思った。

そしてその苦しみを、私は誰かに相談することもできなかった。
子どものころから、人は信じられないものだと、徐々に受け入れてきた。

今でもよく覚えているのは、幼稚園の年長で、友達をケガさせた犯人扱いをうけたとき。
私がそこにいるのに、コソコソと勝手な思い込みの噂をするだけで、私の話を聞こうとしてくれる人は1人もいなかった。
それが人に不信感を抱き、壁をつくることになった原因の1つかと思ってる。
とてもショックだった。


私の周りには、私を勇気づける言葉をかけてくれる人はいなかった。どこにも行き場はなく、不安定だった。
必要とされる人になろうと、誰かの真似や偽りを口にした。
それだから、私ではない私が出てきやすかったのかもしれない。

そんな私だから、人に相談するなんて頭になくて、自分の内側で解決するしかなかった。

それで無意識に、現状を拒み続けるために、自分ではない自分を引き出したのかもしれない。

そうしなくては、まともな人間として維持できなかったから。

自分ではない自分も、自分のうち

“どうして自分が自分でないようになってしまったのか。”

いつもなら踏み込まないことに、踏み込む。
気が乗らない···。
とにかくそれが分からないうちは、先には進めない。自分ではないと感じる自分も、自分には違いないはずなんだ。それをどうして自分じゃないと感じているのか。
その理由を探らないと。



いつから自分ではない自分が出てきたのかは分からないけど、大学3年生のころは、特に意識することになった。

短期大学で就職できず、親に言われるまま、大学へ編入した。
同級生は就職したのに、また私はテストの点数のためだけに勉強をし、2年間をムダにするのかと切迫していた。
こんなことになるなら本当にやりたいことを···と思ったが、この私が辞められるはずがないし、親の理解を得られるはずもないと諦めた。
死にたい気持ちが広がった。

···しかし、死ぬのにも覚悟がいる。おかしな話だ。
生きる覚悟ができない私には、死ぬだけの覚悟を持つこともできなかった。失望した。

そうして大学3年に編入した私は、すぐに“就活”という言葉を聞く羽目になり、重苦しい日々を過ごした。


そして私は、おかしくなった。

じゃんけんで、ずっとグーを突きだしてたり(もちろん負けた)、見えるのに何も見えないと感じていたり、文章を何度も読まないと理解できなかったりした。

善悪がなくなったかのようになったときは、万引きができてしまう状態にあった。無知な子どものように、商品を手に持って外に出てしまえる感じだった。
そんなときに、他人みたいな私が制していた。そいつは善悪を知識としてしか分からない奴で、どうしてかなんて考えようともしない、規則は絶対だと言い張る奴だった。

階段を見れば転げ落ちるイメージがパッと浮かぶ。窓が開いていたらゴミのように自分を投げ捨てるイメージ。
そんなのを、さっきとは別の軽口をたたく他人みたいな私が、
“またそれか。つまらんな、もっとこうしたら···”
とかリアクションして、どうにか平静さを保っているつもりでいた。

自覚はなかったけれど、相当ストレスを抱えていたんだろうと思う。


それら他人みたいな私は、性格がキャラクターのようだった。スタンスが決まってた。
冷静な奴とか、楽しそうにしてる奴、ずばずば言う奴、口が達者な奴など。

あの頃のおかしくなった私を社会的にも生存させるには、複数のキャラクターが必要だったみたいただ。
客観的な私というやつかもしれない。 

(次回へ)

本心の私は散歩できない


今でも本心の私は、はやく死ななくちゃって感じてる。
死ぬなら早い方がいい。

あぁ、そっか。

思い出した。
私がニートになったのは、こいつの仕業だったのか。ま、それは今度書くとして···。

私の今の問題は本心をないがしろにすることだ。



んーー···

すると、ポケモンgoで散歩に出るときの、あの自意識過剰さに向き合わなくちゃいけないのか。

···それが本心だといえるだろうか。
少なくとも過去の私と繋がった感覚ではあるが、病気みたいなものかもしれないし、それだけで本心かどうかは······←何こいつめんどくさい。

ともかく、未だ散歩に行けないのは事実。
でも、本当は行ける。私でない奴なら。
でもそれじゃあ、これから仕事をするときに、また生きていることを見失う。
本心の自分でなくちゃ、やる意味がないんだ。

だからその“本心”ってなんなのよ。

えーと···私の言っている本心の自分ってのは、感覚や感情に素直で、今まで積み重ねてきた経験の上で生きている奴のこと、かな。

いい感じに書いてみたけど、それってすんげぇめんどくさい、子どもっぽい私のことなんだろうな。

本心の私は散歩できないけど、散歩するべきだと思える奴はいて、私とは別の、他人みたいな奴なら散歩できる。
自分が他人のようになってしまっていた大学生の頃の名残が、まだ払拭できて······あれ?

“今まで積み重ねてきた経験の上で生きている私が、本心の自分”

これって、あの頃生きてた自分でも、“本心の自分”に含まれるんじゃないか?
それなら今の私も···。

これが今の本心だっていうのか。
ちょっと、わけがわからない。
生きやすい他人のような自分も、本心だというのか。こんなに、でたらめなのに。

そうだとしたら、“本心の自分でなきゃ意味ない”って思ってたのは、ただ、自分を否定してただけ···


んー······

でも実感がないんだよ。
きっと散歩したって、身にならない。進歩しない。
そんなのは嫌だ。

あれ······


私は、何を、否定しているんだ···?

散歩に行ける自分を、否定してるんじゃないか?

私が散歩に行けるはずないって、そう思いたいだけなんじゃ···

·········

夕飯食べてきた。

私が知らないといけないのは、どうして自分が自分でないようになってしまったのかだと思った。

また次回の日記で探ろう···

自分として生きたい

ニート脱出のため、まずは基本的な筋力をつけることにした。
それで初めてのスマホを買ったことだし、ポケモンgoをしに行こうと前回の日記で決めてた。

けれどそれがまだ行けてない。



私は負の感情にのめり込みやすい。それを一番に知っていてほしいのは自分。
だから、なるべく距離を置くことにしていた。そうすることで、近所を歩きたくないと思わないですむと思ってた。

けれど、前回の日記を書いてから、まるで他人事のように過ごしている自分に気づいて、こりゃ、また同じ過ちを繰り返しちまったと気づいた。

前回の日記を書いた私は、私ではなかった。
夢みる私だった。
こうあってほしいと思う私。
できもしない計画をたてる私。
“~すべきだ”と考える私。

ここで行動にうつさないといけないのは、その私ではないのに。
また自分の気持ちを置いてきぼりにしてしまってた。

本心でなくちゃ、やる意味がないのに。

何度もこのようなことがあったから、ちゃんと書いておかないと。



私が大学生だったころ、自分が自分でない感覚があった。おかしいと薄々感じてからは、よく手の平を見てた。ごく自然にそうしてた。

人って不思議。
あの手の平には何があったんだろう。
あのとき、自分だと思えるように見てたのか、自分の手だと感じないことを感じていたのか、感受性が落ちていたからわからなかった。
けれどあるとき、ふっと言葉が出た。

“私はどこに行っちゃったんだろう”

そのあたりから、自分が四季を感じられなくなっているとか、空がきれいだとかも思えなくなっているのに気づいた。
高校生だったころは、バカみたいに空の写真ばかり撮ってたのに。

感じ方が鈍くなっていたから、嫌だとか、避けたいって思う気持ちもほとんどなかったけど、あんなのは、なんていうか、他人だった。

歩いていて、動かされているかのような感覚になったりした。
それに恐れて、立ち止まったり、そこからどう一歩を踏み出せばいいのかわからなくなったり。

たぶん、生きづらい私を捨てて、別の人間として生きようとしていたんだと思う。
いやそれとも、親の決めた大学を通うことに、本心だけは背いていられるように作られた私だったのかもしれない。

とにかく、違和感が出始めて、私は苦しんだ。



もう、あの頃みたいにはなりたくない。
自分として生きたい。
切り離さず、重ねた色が複雑になった一本の道の、先頭を進みたい。

とてもめんどくさいけど。

今では自分がどこにいるのか、わかってるつもり。
でもいまいち本心の自分と、この世で生きやすい自分の使い方がわかってない。


なんか長くなっちゃった。
次回の日記で、はっきりとさせよう。

ポケモンgoで家出たい。旅がしたい。

よかった。第2回目の日記。

スマホの文字入力はまだ慣れないけど、これから恥知らずに私のニート生活を記していこう。



初めてのスマホを買ってから、私は早速ゲームをインストールした。
変わろうと決心したのに、そうすぐには変われない。

しかしポケモンgoであれば、外を歩かなくちゃゲームできない。

ほとんど動かない私は、かなり筋力が落ちているのを体感している。
万歩計アプリによると、1日に150歩ほどしか歩いていないらしい。

これじゃあ働くことになったら、疲労でぶっ倒れてしまう。
だから筋力をつけたい。
そのために歩いて、しかもゲームができるなら一石二鳥!なんて都合のいいように思ってた。

いまだ外へ出られない。

おかしい。最近は涼しくなって、歩いてみようという気にはなる。が、どうも警戒心のような気持ちが強く出る。

“誰もお前がニートだなんて知るよしもないんだから、何気なく歩いてりゃいい”

とか、自意識過剰を落ち着かせるために説得してみるけど、なかなか出ていけないでいる。

どうやら、近所を出歩きたくないらしい。

車で行った先でなら外に出られるんだ。
自分ではない、他人の集合体の一部となって、お客様として、通行人としていられれば、まだ落ち着いていられる。
それと同じように“散歩する人”になれればいいんだけど、散歩となるとちょっと···。

どうしてこんなに抵抗感があるのか、私って、めんどくさい。
少しは自分の理想に生きたい。

ということで、次回の日記までには散歩してみたいと思う。

ニートである私の生活には、制限のついた物は食べ物と、テレビ、アニメくらいしかない。
大概のことは先伸ばしにできてしまうので、日記で宣言してやってみようと思う。



他にインストールしたアプリはこの通り。
ライン、天気、旅行、電車、辞書、百名山、星座表、ラーメンマップ。

いつか一人旅がしたい。

散歩することもできない、人の目を気にしすぎる臆病な私でも、密かに、いつの間にかそう思う気持ちがあった。

一人旅を実現するそのときには、ぜひこの日記に書きたい。



私は、スマホを希望に満ちたものにしたかった。
それでこの日記も始めた。

約2年半は何もできなかったけれど、気持ちだけは変わった。少しは前向きになれた。

自分の人生を好きに生きてみたいと思えたから、旅がしたいって、忘れていた気持ちが浮かんできた。
星が好きで、ラーメンも好き。山にだって登りたい。

私にだってちゃんと好きなことがあった。

······これからどんな生き方ができるだろう。


今さら生きてみようだなんて、現実を直視すれば、私の心はすさむ。
旅がしたいだなんて夢に夢みていれば、生きたいと思える。


今はどうにか生きる方を選びたい。

はじめまして。ニートです。

「最近の人はスマホなんだから、ゆー(この日記の主)もスマホくらい使えるようにならなっきゃなんねぇ」金は出してやっから、と父が付け加えた言葉に、少しびくついた。
手にしていた所々塗装のはげたガラケーは、時計とアラームとメモ機能と、家族との連絡以外には使われていなかった。

スマホ······いつでもネットができる···旅だってできるかもしれない!〉
馬鹿に気分が乗って、それからの日々に活力がうまれた。格安スマホ、クレジットカード、ガラケーの解約方法、調べなきゃいけないことはたくさんあった。
そして、8月の末。ついに初スマホ購入。
父からは30,000円を手渡された。毎月お小遣いをもらっているのに、断りもせず、
「ありがとうございます」と、吐いた。


私は3年目のニート
大学卒業から今まで、働いたことは一度もない。現在25歳。
かつての同級生は働いていたり、海外に旅行に行ってたり、結婚して赤ちゃんを産んで、新しい家庭を築いてる人もいた。これらをフェイスブックで覗き見たときは、私との差に愕然としたものだった。
まるで子どもの自分に気づかされた。

それだから、お金を受け取る度に、いっそう息がつまる。
心にもない“「ありがとうございます」”を吐き出す。親からお金をもらっている場合ではないことはわかってる。来月こそはお小遣いを受け取らないように、バイトしようと思ってきた。

しかし、その“来月”には、2年たった今もたどり着けないでいる。
それでも、この1ヶ月自分の身の回りのことを自分でやれたからか、いつもとは違う“生きる気力”が芽生えたと感じている。そして、どうかそれが消えないようにと、スマホを手に日記を始めようと決めた。

これから生きてみよう。
無知でいるのも、諦めることも、抑えることも、自分の人生に対してだったら、気ままに自分で決めていいはずだ。変わるために日記を書く。
日記をやめるときには、“やめる”と書くことにしよう。そう私が決めた。

これから末永く、よろしくお願いします。